東京高等裁判所 平成10年(行ケ)387号 判決 1999年6月24日
東京都大田区中馬込一丁目3番6号
原告
株式会社リコー
代表者代表取締役
桜井正光
訴訟代理人弁理士
加藤和彦
東京都千代田区霞が関三丁目4番3号
被告
特許庁長官
伊佐山建志
指定代理人
松島四郎
同
青山待子
同
田中弘満
同
廣田米男
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第1 原告が求める裁判
「特許庁が平成9年異議第71416号事件について平成10年10月30日にした決定を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決
第2 原告の主張
1 特許庁における手続の経緯
原告は、発明の名称を「輪転謄写印刷装置に於ける版胴への巻き付け方法」とする特許第2538817号発明(以下「本件発明」という。)の特許権者である。なお、本件発明の特許は、昭和58年4月28日に登録出願された昭和58年実用新案登録願第62845号を特許出願に変更した平成3年特許願第313953号に係るものであって、平成8年7月8日に特許権の設定登録がされたものである。
しかしながら、本件発明の特許については特許異議の申立てがあり、特許庁は、これを平成9年異議第71416号事件として審理した結果、平成10年10月30日に「特許第2538817号の特許を取り消す。」との決定をし、同年11月11日にその謄本を原告に送達した。
なお、原告は、同異議事件において、平成9年10月20日に明細書の訂正(「版胴側の搬送手段と原紙ローラー側の搬送手段の速度差」を、「ローラーからなる版胴側の停止している搬送手段と、この版胴側の搬送手段よりも原紙移送方向に於ける上流側に位置する搬送手段との速度差」に訂正することを要旨とする。以下「本件訂正」という。)を請求したが、上記決定において本件訂正は認められない旨の判断がされている。
2 決定の理由
別紙決定書の理由(一部)写しのとおり
3 決定の取消事由
決定は、「速度差」とは一方の速度と他方の速度との差の意味であって、一方が停止している場合における他方の速度との差という意味はないとして、本件訂正は訂正前の特許請求の範囲における「速度差」の意味を別の意味に変えるものであり、実質上特許請求の範囲を変更するものである旨判断している。
しかしながら、「速度」の概念が速度0も含むことは物理学の常識であるから、本件訂正前の特許請求の範囲の記識によって特定される発明は、原紙に所定のたるみを形成する時点において、版胴側の搬送手段が回転している場合と、回転していない場合の双方を含んでいる。そして、本件訂正は、版胴側の搬送手段が回転していない場合に限定するものであるから、特許請求の範囲の減縮に該当することは明らかであって、決定の上記判断は誤りである。そして、決定は、この判断を前提として本件発明の新規性を否定したものであるから、違法であって、取り消されるべきである。
この点について、被告は、本件訂正前の特許請求の範囲の記載によれば、「所定のたるみを形成」する時点では版胴側のローラー対が停止していないことは明らかである旨主張する。
しかしながら、本件訂正前の特許請求の範囲の記載は、「たるんだ原紙を適度の張りを与え乍ら巻き付ける」工程が「版胴側のローラー対を停止した後」の時点において行われるべきことを特定しているにすぎないから、被告の上記主張は失当である。
第3 被告の主張
原告の主張1、2は認めるが、3(決定の取消事由)は争う。決定の認定判断は正当であって、これを取り消すべき理由はない。
原告は、「速度」の概念が速度0も含むことは物理学の常識であるから、本件訂正前の特許請求の範囲の記載によって特定される発明は、原紙に所定のたるみを形成する時点において、版胴側の搬送手段が回転している場合と、回転していない場合の双方を含む旨主張する。
しかしながら、本件訂正前の特許請求の範囲には「版胴側の搬送手段と原紙ローラー側の搬送手段の速度差により、所定のたるみを形成し、前記版胴側のローラー対を停止した後に、版胴回転で前記たるんだ原紙を適度の張りを与え乍ら巻き付ける」と記載されているから、「所定のたるみを形成」する時点では版胴側のローラー対が停止していないことは明らかである(本件訂正前の特許請求の範囲の記載によって特定される発明が、原紙に「所定のたるみを形成」する時点で版胴側のローラー対が停止している場合も含むとすると、既に停止している版胴側のローラー対を更に停止する場合が含まれることになり、不合理である。)。
理由
第1 原告の主張1(特許庁における手続の経緯)及び2(決定の理由)は、被告も認めるところである。
第2 甲第3号証(特許公報)によれば、本件発明は、製版部で製版された原紙を搬送手段により版胴に給送する輪転謄写印刷装置(1欄14行ないし2欄1行)において、版胴の回転ムラによって製版が不良になったり、原紙が破損したりすることを解決すべき課題として捉え(2欄10行ないし14行)、特許請求の範囲記載の構成を採用することによって(1欄2行ないし11行)、版胴への巻取りが製版に悪影響を及ぼさない作用効果を得ようとするものである(4欄25行ないし28行)と認められる(別紙図面参照)。
第3 そこで、原告主張の決定の取消事由の当否について検討する。
原告は、「速度」の概念が速度0も含むことは物理学の常識であるから、本件訂正前の特許請求の範囲の記載によって特定される発明は、原紙に所定のたるみを形成する時点において、版胴側の搬送手段が回転している場合と、回転していない場合の双方を含むところ、本件訂正は版胴側の搬送手段が回転していない場合に限定するものであるから、特許請求の範囲の減縮に該当する旨主張する。
確かに、2つの物の間の「速度差」が問題となる場合、一方の物が速度が0であることは背理とはいえない。しかしながら、本件訂正前の特許請求の範囲は、版胴へ原紙を巻き付ける方法を、
a 「サーマルヘッドで製版した原紙を版胴方向へ給送し」、
b 「版胴側の搬送手段と原紙ローラー側の搬送手段の速度差により、所定のたるみを形成し」、
c 「前記版胴側のローラー対を停止し」た後に、
d 「版胴回転で前記たるんだ原紙を適度の張りを与え乍ら巻き付ける」
として、各工程を経時的に特定しているものである。したがって、c工程よりも前のb工程の時点では版胴側のローラー対は停止していないことに疑問の余地はない。
この点について、原告は、上記記載は「たるんだ原紙を適度の張りを与え乍ら巻き付ける」工程が「版胴側のローラー対を停止した後」の時点において行われるべきことを特定しているにすぎない旨主張する。
しかしながら、上記a工程からd工程に至る経時的な記載のうち、cの記載のみが経時的な工程から除外されるのは不自然であるから、原告の上記主張は採用することができない。
第4 よって、本件訂正は認められないとした決定の認定判断は正当であって、決定の取消しを求める原告の本訴請求は、失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結日 平成11年6月10日)
(裁判長裁判官 清永利亮 裁判官 春日民雄 裁判官 宍戸充)
別紙図面
<省略>
20 製版部
21 版胴
22 原紙送りローラー
23 原紙排出ローラー
26 クランプ部
28 原紙
29 原紙駆動モーター
Ⅱ.訂正の適否
上記訂正請求は、特許請求の範囲の減縮及び明りょうでない記載の釈明を目的として、特許明細書を訂正明細書のとおりに訂正することを求めるものである。
そして、訂正の主な内容は、特許請求の範囲の請求項1中の「版胴側の搬送手段と原紙ローラー側の搬送手段の速度差により、所定のたるみを形成し、前記版胴側のローラー対を停止した後に、版胴回転で前記たるんだ原紙を適度の張りを与え乍ら巻き付ける」を、「ローラーからなる版胴側の停止している搬送手段と、この版胴側の搬送手段よりも原紙移送方向に於ける上流側に位置する搬送手段との速度差により、両搬送手段の間で前記原紙に所定のたるみを形成し、版胴の回転によって版胴に巻き付けられる原紙による前記ローラーの連れ回りにより、版胴と前記ローラーとの間で、前記たるんだ原紙から引き出される原紙に適度の張りを与え乍ら該原紙を版胴へ巻き付ける」に訂正するというものである。
しかしながら、上記訂正の中の「版胴側の搬送手段と原紙ローラー側の搬送手段の速度差」を「ローラーからなる版胴側の停止している搬送手段と、この版胴側の搬送手段よりも原紙移送方向に於ける上流側に位置する搬送手段との速度差」と訂正する点は、特許請求の範囲の請求項1記載中の「速度差」を、「一方の速度と他方の速度との差」の意味から「一方が停止している場合における他方の速度との差」という別な意味に変えるものであり、実質上特許請求の範囲を変更するものである。
特許権者は、かかる点について、意見書で『一般に「速度差」という場合には、確かに「一方の速度と他方の速度との差」という意味と、「一方が停止している場合における他方の速度との差」という意味があります・・・。本件特許において、「速度差」が、「一方が停止している場合における他方の速度との差」を意味することは、特許明細書における段落「0007」等の記載から明らかです。・・・なお、この訂正の根拠は特許明細書の段落「0007」の「原紙排出ローラー23の駆動を停止させ、前記原紙送りローラー22の駆動を所定時間続行することで前記原紙排出ローラー23及び原紙送りローラー22間に原紙のたるみを形成させ」にあります。したがって、かかる訂正は、特許請求に範囲の減縮、明りょうでない記載の釈明以外には当たらず、実質上特許請求の範囲を変更するものではありません。』と主張している。しかしながら、「速度差」と云えば、一般に「一方の速度と他方の速度との差」の意味であり、「一方が停止している場合における他方の速度との差」という意味はなく、しかも、特許明細書の段落「0007」には、原紙排出ローラー23の駆動を停止し、原紙送りローラー22の駆動を所定時間続行することで、原紙排出ローラー23及び原紙送りローラー22間に原紙のたるみを形成させることができる旨記載されているものの、「遠度差」という用語は記載されておらず、「一方が停止している場合における他方の速度との差」という記載もないから、この主張は失当である。
したがって、上記訂正請求は、特許法第120条の4第3項で準用する第126条第3項の規定に適合しない。
よって、当該訂正は認められない。
Ⅲ.特許異議申立てについての判断
(本件発明)
請求項1に係る発明(以下、「本件発明」という。)は、特許明細書及び図面の記載からみて、その特許請求の範囲の請求項1に記載された次の事項によって特定されるとおりのものである。
「【請求項1】製版部で製版された原紙を複数の搬送手段により版胴に給送するようにした製版と印刷が一体となった輪転謄写印刷装置に於て、サーマルヘッドで製版した原紙を版胴方向へ給送し、版胴手前の搬送路中に於て前記複数の搬送手段のうち、版胴側の搬送手段と原紙ローラー側の搬送手段の速度差により、所定のたるみを形成し、前記版胴側のローラー対を停止した後に、版胴回転で前記たるんだ原紙を適度の張りを与え乍ら巻き付ける如くした輪転謄写印刷装置に於ける版胴への巻き付け方法。」
(引用刊行物記載の発明)
当審が通知した取消理由において引用した刊行物(特開平2-98480号公報)には、「原紙を送り感熱製版を行いながら原紙を輪転ドラムに自動着版する原紙の着版装置において、製版用の駆動モータにより駆動される製版のための原紙送り装置と、前記製版のための原紙送り装置の下流にあり着版モータから一方向クラッチを介して駆動される着版送り装置と、メインモータにより駆動される輪転ドラムの回転位置を検出するエンコーダと、前記グリッパの定位置で前記原紙の先端を検出するセンサと、前記着版用のモータの回転駆動量を前記製版用の駆動モータの回転駆動量よりも少なく制御して着版送り装置の下流に原紙のたるみを設け、前記センサにより原紙の先端を検出してからグリップに必要な所定量の送りの後に前記着版用のモータを停止しメインモータを駆動して巻きつけを行わせる制御部から構成した製版原紙の着版装置。」(特許請求の範囲)に係る発明が図面と共に記載されており、「本発明の目的は製版後原紙を輪転ドラムに巻きつける時に途中経路におけるたるみ量を適当に設け巻きつけ時のシワ、ローラへの巻きつき等を防止するようにした原紙の着版装置を提供することにある。」(1頁右下欄10~14行)、「この発明が適用される自動製版印刷機では、・・・製版部により製版されて輪転ドラムに着版されて印刷が行われる。製版部の原紙ロール9には孔版原紙が準備されている。この孔版原紙はプラテンローラ10で押さえられサーマルヘッド11を通過する際に穿孔される。」(2頁左上欄最下行~右上欄16行)、「製版モータ(パルスモータ)37で原紙を適当な長さ分送り出した後サーマルヘッド10は書込みを開始する。同時に着版モータ(パルスモータ)36も回転を始める。この送り量は製版モータ37の送り量よりも少なく適当なたるみが発生するような速度とする。センサ30によって製版された原紙(マスタ)40の先端が検出されるまで回転を続ける。・・・センサ30により原紙(マスタ)40の先端を検出する・・・時点で着版モータ36は回転を止める。着版モータ36が止まっても着版ローラ14と着版モータ36間には一方向クラッチ35によって接続されているので、着版ローラ14は一方向には回転可能である。」(3頁左上欄5行~右上欄2行)、「着版モータ停止以降は着版装置の一部はメインモータ21の負荷となり原紙には適当な張力が与えられて理想的な巻きつけが行われる。」(3頁左下欄4~6行)ということが記載されている。
これらの記載によれば、上記刊行物には、製版部で製版された原紙を原紙搬送ローラ12と着版ローラ14により輪転ドラムに給送するようにした製版と印刷が一体となった自動製版印刷機に於て、サーマルヘッド11で製版した原紙を輪転ドラム方向へ給送し、輪転ドラム手前の搬送路中に於て前記ローラ12、14のうち、輪転ドラム側の着版ローラ14と原紙搬送ローラ12の速度差により、所定のたるみを形成し、前記輪転ドラム側の着版ローラ14を停止した後に、輪転ドラム回転で前記たるんだ原紙を適度の張りを与え乍ら巻き付ける如くした自動製版印刷機に於ける輪転ドラムへの巻き付け方法が記載されているものと認められる。
(対比・判断)
本件発明と刊行物記載の発明とを対比すると、刊行物記載の発明における「自動製版印刷機」、「着版ローラ14」、「原紙搬送ローラ12」、「輪転ドラム」は、それぞれ本件発明における「輪転謄写印刷装置」、「版胴側の搬送手段」、「原紙ローラ側の搬送手段」、「版胴」に相当するものであるから、両者は、全ての構成で一致しており、相違点はない。
なお、本件発明を特定する事項のうち「版胴側の搬送手段と原紙ローラー側の搬送手段の速度差により、所定のたるみを形成し」の点は、原出願の最初の明細書及び図面に記載された事項の範囲外のものであるから、本件は適法な変更出願ではなく、出願日の遡及は認められない。
この点について、特許権者は、訂正後の特許請求の範囲に記載されている事項により特定される発明は、原出願の最初の明細書及び図面に記載された事項の範囲内のものであるから、本件は適法な変更出願であり、出願日の遡及が認められるべきものである旨主張している。しかしながら、上記訂正が認められないことは、前記Ⅱ.「訂正の適否」で示したとおりであるので、この主張は採用できない。
Ⅳ.(むすび)
以上のとおり、本件発明は上記刊行物に記載された発明であるから、本件発明の特許は、特許法第29条第1項第3号の規定に違反してされたものであり、同法第113条第1項第2号に該当する。